姿勢×セルフケア×和文化

落語を聞こう①ママが自分を許せる『人のだらしなさ』

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この記事は、全5回で『落語』を通じて子育ての不安や責任感を軽くしちゃおう!

というシリーズの第1回です。

今回は、

ママが自分を許せるようになる考え方を、落語を通してお話します!

落語の世界は実にだらしない、バカバカしい、滑稽な人物が次々にやってくるんです。

はるか昔から、人間はこんなアホなことをやってきたのか…。

そんな風に感じると、私まだ全然マシじゃん、なんて思えるかも知れませんよ。

実際、ぼくも子育てで折れそうな時は常に落語を聞いていました。

その度に、滑稽な人々が一生懸命な様子が浮かび上がってきて、なんだか許せてしまう自分に気づくんです。

この記事では、落語が子育てママにとってどんな魅力があるのか。

お伝えしていこうと思います。

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落語で『人を許して楽しむ』ことを知って欲しい

子育てや家事に追われ、家の中にカンヅメ。

子供が落ち着いて、お昼寝した時にふとスマートフォンを開いてひと息。

ふと、朝起きてから振り返ると、何もやることが進んでいない…。

もう嫌だ。何から手をつけたらいいか分からない。

そんな時に、ぜひ落語を聞いてみてください。

落語は『許し』と『人間愛』による笑いを得るもの

落語は、噺家(はなしか)さんが1人で何人もの人物を演じ分け、あなたの耳に物語を届けます。

あなたの耳から入り、頭の中の想像力で物語を作り上げる『共同作業』の話芸です。

その中で、あなたは色々な登場人物をイメージで作り上げ、

そしてそれらの人物の滑稽さ、だらしなさを感じることでしょう。

そして、こう思います。

『人って、こんなところあるよね』

『ああ、私だけじゃないんだ。こんなことであれこれ悩む人っているんだなぁ…』

あなたは自然と、その架空の人物を『許す』と思います。

そして、『愛すべき人物』として親しみを感じ、登場人物たちのドタバタ劇を笑って共感できます。

落語はそんな、

『人間誰もが持っているだらしなさ』を描くのです。

笑いとは『肯定と共感』をすること

落語を聞いてなぜ笑うことが出来るかを、もう少し掘り下げてみましょう。

『看板のピン』という、ぼくの好きな噺(はなし)があります。

これは、サイコロを使ったバクチのお話です。

サイコロを転がして、その上に茶碗でフタをします。

そのサイコロが、1〜6のどの目が上を向いているかを賭けるというルールのバクチですが、

ある年配の『おやっさん』が見事なトリックを使うんですね。

おやっさんは、サイコロを転がして茶碗でフタをし、

『さぁ、どの目が上や?』

と若者たちに問います。

ところが、若者がふと茶碗のそばを見ると、

『1』の目が上を向いたサイコロが見えている。

『目が遠いから、サイコロが茶碗からこぼれてるのにも気が付いてないんや!』

と若者たちはしめしめ。みんな1の目に賭けます。

すると、おやっさんは『さて、この看板のピンは懐にしまおう』と言って、

サイコロを片付けてしまいます。

唖然とする若者たち。

実は、サイコロは2つあったわけです。茶碗の下にはちゃんとサイコロがあり、

おやっさんは若者の意識を茶碗の中から逸らすために『看板のサイコロ』を見せていたのです。

タイトルの『ピン』とは数字の1のこと。

看板として出したピンの目のサイコロをテーマにした噺が『看板のピン』なのです。

この手口にむしろ感心した若者たちは、

自分たちも同じ手を使ってみよう、と別のバクチ場でおやっさんの手口の『マネ』をします。

同じようにみんなが1に賭けてしまい、種明かしをすると悔しそうに非難する。

得意げになった若者が気持ちよく茶碗のフタを開けて本物のサイコロを見せると、

なんと今度は茶碗の中も『1』だった。

大負けするというオチで終わる噺です。

シンプルな構成と思いませんか?

人のやり方に感心して、自分も手を出してみたら大失敗する。

人間って、どこか『こういうところあるよなぁ』という気になりませんか?

そんな、人間のだらしなさを許し、肯定して笑い飛ばしてしまうのが落語です。

落語を聞いているうちに、日常でも人のだらしなさに対して大らかになってくるのですから、不思議なものです。

落語は聞くだけで、想像力が広がる

落語は様々な登場人物が出てきます。

つまり、それだけ色々な『価値観』があなたに届けられるということです。

人は自分の価値観の範囲でしか、ものを考えることはできません。

いろいろな視点、様々な人の気持ちを耳で聞き、頭の中で想像して噛み締めることで、

あなたの価値観は気づかないうちに広がりを見せていきます。

普通なら受け入れられない考え方であったとしても、

『笑い』と一緒に感じると、不思議と許せてしまうように落語は作られています。

このことから、ぼくは落語を『究極の人間愛の芸』だと考えています。

噺家が演じ分ければ、それだけで世界が生まれるのです。

小道具も、セットもメイクもいらない。

演じ手と聞き手の想像で『創造する』話芸です。

色んなものがつながって、調和する。

まさに『和』を生み出す芸能ではないでしょうか。

落語を聞いて自分自身をも『許そう』

落語は完璧でない、欠点のある人間たちがたくさん登場します。

それらが一生懸命に生きるさまを想像し、許して笑います。

そして、どうかあなたも自分自身を許してあげてください。

完璧じゃない人たちを、いま笑ってきたところです。

はるか昔から落語は演じられてきました。

つまり、昔も今も人間の本質は変わらないんです。

完璧じゃない、欠点のある人たちが一生懸命生きているんです。

もし、あなたが落語を聞いて笑えたなら、あなたも自分のだらしなさ、滑稽さを許して肯定してあげてください。

次回は、『子供が飛び出すドタバタ落語』を題材に、

落語から学べる、子供との向き合い方についてお話します。

今回はここまで!

ぼくのヘンテコな生き様が、あなたに少しでも『いまを変える』キッカケとして届きますように。

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この記事を書いた人

殺陣4年目。普段はリラクゼーション仕事をしながら、身体の勉強をしつつ、殺陣を楽しんでいます。YouTubeチャンネル『ちゃんばらスタジオ』で仲間たちと殺陣の動画コンテンツを更新しています。

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